上布との出会い
南西航空に働いていたころ、何かしたいという気持ちがあった。しかし、それが何か分からなかった。ある日、下地恵康さんの工房を訪ねた。「(上布織りを)やってみたいね」と言ったら「若い人にはできんさー」と言われた。返す言葉で「やってみるさー」と言ったら受け入れてくれた。上布織は、この会話の弾みがきっかけとなった。何カ月もしないうちに「これが私の天職かな」と思うようになり、いつしかはまり込んでいた。
オリジナル上布の世界へ
経験を積むと余裕が出て、上布の伝統(歴史)を知るようになった。歴史をひも解くと琉球王朝時代は大柄な図柄が主流を占め、紺十字絣は明治時代に大島から入ってきたことが分かった。私は王朝時代の上布にひかれ、十字絣の世界を離れた。二十七歳の時、下地さんの工房を辞め、独り立ちした。
宮古上布は全国ブランド
昔の自給自足のころより宮古では、庶民の着用する苧麻布の存在がうかがえる。今から四百五十年ほど前に、稲石という下地の女性が夫の昇進を喜び上布を琉球国王に献上したことが、宮古上布を世に出すきっかけとなった。薩摩藩の琉球侵攻以降、宮古上布は全国に流通し、大いなるブランドとなった。王朝時代は琉球織物の御絵図師(専属デザイナー)がいて、その人たちの描いた何百種類の図柄(御絵図柄)が活用されていた。私はその図柄を現代に生かすよう、工夫している。
人々の手技の結集
上布は苧麻の栽培、ブーンミ(糸績み)が基盤になっている。私の工房関係では苧麻は砂川で栽培され、糸は新里、砂川、友利、宮国、下地で績んでいる。人々の技が結集され、一枚の布が出来上がる。上布の世界には人間らしい生き方を求めて、いろいろな人が集まってくる。伝統には、そういう力があるのだなあと実感する。宮古上布は、宮古島として生きる、生きられる人間性回復の証しであり、島の根っこだと思う。
糸績む人の育成重要
現在の糸の生産は、七十歳以上の人が支えている。六十歳代以下の世代は少ない。この方たちは、糸績みの技術を家庭の中で覚えた。昔と変わった現状では後継者の減少が予想され、糸の十分な確保は将来的に期待できない。行政を含めて島ぐるみの後継者育成が望まれ、私自身も頑張っていきたい。
ブーンーサロンの設置を
人頭税制のころ各村の番所に、苧績家(ブーンーヤー)が設けられ、貢納布の生産体制が整えられていた。これを現代風に「ブーンーサロン」の呼び名で各地に設けたら面白いと思う。宮古島市内には高齢者が集う福祉施設が多い。ここで糸を績むメニューを組みブーンーサロンにすれば生産施設になる。お年寄りのコミュニケーション、健康維持、そして作る喜びが感じられる場になる。宮古上布は、宮古の共同体の中で生まれた。人が手と手をつなぎ、心と心を織り成して生まれる宮古上布なのです。 |